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明治四二年以来、東京弁護士会には、桃李倶楽部という多数派が支配体制を確立し、役員を独占していた。
これは、役員選挙が記名式投票であったところから、統一候補を謄写版などで印刷した用紙を会員に渡し、そこに記載されているとおりに投票することを求め、会長、副会長、常議員の当選をはかっていたのである。
しかし、少壮会員の中に、次第に長老と確執が生じ、長老の言いなりに投票することに不満を抱くものが出て来た。
大正二年にそのエネルギーが常議員選挙の際ふき出し、多数の少壮弁護士が選ばれ、初めて常議員議長選挙が行なわれ、さらに中央大学において行われた大正五年の総会は、単記無記名式投票方法に選挙規定を改正することの是非をめぐって荒れ、検事正の警告まで受けるにいたるのである。
しかし、この選挙規定の改正はならず、桃李倶楽部はその後の役員選挙でも勝利した。
このような時に谷村唯一郎先生、三上英雄先生、吉沢直先生など後に、二一会の結成に参加された先生方が、大正六、七年の弁護士試験に合格し、東京弁護士会に入会、それぞれ長老の先生の法律事務所に所属されたのではあるが、すぐに、旧態依然とした役員選挙を経験し、全てが長老の先生方の方針に従い、その命令に従うというのではいけない、少壮なる者は、少壮の者同志で団結し、役員の選任を公正にし、弁護士会を良くしなければいけないということで仲間を集め、動き出した。
そして、大正六年の弁護士試験合格者が中心となり、法律と裁判制度の研究を進め、互いに切磋琢磨して理想の法律家となることを目的として団結し、東京弁護士会の会務の運営に寄与し、併せて親睦をはかるために、志を同じくする少壮の者が会を結成しようとしたのである。
この発起人に、谷村唯一郎先生、三上英雄、吉沢直の三先生と今は故人となられた作田高太郎、吉田敬直、佐藤博、山口直、松永東、小池義一、木本篤、鈴木喜三郎、一又安平、原田治郎などの先生方がなり、志を同じくする者の参加を得て、総勢三〇ないし四〇名であった。
そこで、大正八年二月二十一日に浅草雷門の大増で創立総会を挙行、その後の東京弁護士会の歴史の流れに深くかかわっていくこととなった。その時は、会の名称を「二十一会」と称した。しかし、商工会議所の実業団体の中に同名の団体があり、混同をさけるために後に二一会と改めた。
大正十一年の役員選挙を機に、桃李倶楽部は、長老派と二一会、緑新会などの少壮派とに分裂して、同倶楽部内での会長候補者の選定と弁護士総会の選任議決とがこれまでとは異なり、円満かつ平穏の内に決まらず、議論沸騰した中で行われた。
長老派は岩田宙造先生を、小壮派は緑新会の乾政彦先生をそれぞれ会長候補に推して対立したが、五月二八日の弁護士会の総会において結局、乾先生が当選した。その時、二一会会員は営議戦で戦ったという。
長老派はこれだけでも不快であったのに銀座尾張町の松本楼において、会長に当選した乾政彦先生が「元老何をするものぞ。新しい時代が来た。古きものよ去れ」との趣旨の、長老派にとっては聞き捨てならない発言をした。ここらあたりから、おかしな雰囲気になったという。
そして、六月八日には、長老派は、桃李倶楽部からの脱退と「東京弁護士会」の設立を宣言したが、その年の十二月九日上野精養軒で開催された日本弁護士協会の総会における理事の選任に際し長老派は僅かしか選ばれず少壮派が多数を占めてしまい、決定的な打撃を受けてしまった。
このような勢に乗った少壮派の動きに不満の長老派は、東京弁護士会から分離して、別の弁護士会を設立するため、弁護士法の改正を図った。「会員実に二千余の多きに達し、従って思想感情を異にするものに簇生し」たことを標語として別にもう一つの弁護士会を組織しようというのである。そして、弁護士法の第一八条「弁護士ハ其ノ所属地方裁判所毎ニ弁護士会を設置スベシ」とあるのを第二項として「一地方裁判所ノ所属弁護士三百名以上ニシテ内百名以上ノ同意アルトキハ司法大臣ノ認可ヲ受ケ二個以上ノ弁護士会ヲ設立スルコトヲ得」と加え、改正しようというのである。
これを知った二一会、法曹同志会などは「弁護士会分裂法案反対同盟」を結成し、法案反対のために檄を発するなど活躍し、この法案に反対する会員により臨時総会招集請求がなされ、その結果大正十二年三月六日に神田駿河台の明治大学記念講堂で開催された臨時総会は、騒然とした中で、ともかくも改正案反対の決議を通過させたのである。混乱のきわみ、賛成派だけが賛成の決議もしたという。